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青山嘉左衛門家中興の祖、青山留吉は、天保7年(1836)に父嘉左衛門の第6子として、飽海郡遊佐郷青塚村(遊佐町比子字青塚)に生まれました。家は貧しく、幼少の頃は、父の漁業や母の酒田への行商を手伝っていましたが、18歳で羽後国由利郡(秋田県由利郡)に養子に出されました。しかし旧慣を重んじる家風は留吉には合わず、家に戻り、安政6年(1859)の冬、24歳の時に、北海道の漁場に1人で渡りました。 最初は後志国高島郡祝津村(小樽市祝津)の寺田九兵エのもとに雇漁夫として働きましたが、約1年後に小規模ながら同地にて漁場を開くに至りました。そして明治期の積丹半島を中心に漁場を次々と拡大し、青山家はやがて漁場15ヶ統余り、漁船130隻、使用人300人余を擁する道内有数の漁業家に成長したのです。 一方では故郷の青塚に、明治中期に元大組頭渡部家の土地を入手してこの本邸を建設しました。後には田地250町余りを所有する大地主となり、一時は村税の8割を納めていたといいます。 漁業一筋48年、明治41年(1908)73歳の時に、留吉は北海道の漁場を養子の政吉に譲り、青塚に隠居しました。 晩年は青塚や酒田で過ごしましたが、大正5年(1916)4月19日、山形と北海道の両青山家の隆盛を見守りながら、安らかに留吉は81歳の波乱万丈の生涯を閉じたのでした。
遊佐町青塚にある母屋の建設は、当時北海道のニシン漁場にあった青山留吉が、明治20年(1887)に企画し、分家の当主で、後に西遊佐村長を勤めた青山米吉に計画の一切を任せ、明治23年(1890)に竣工しました。 大工は遊佐町宮田の土門市郎左エ門を棟梁とする人々で、離れや土蔵の建設にも携わっています。母屋の屋根裏には建築経緯を詳細に記した、他に例を見ない形式の棟札が残されていました。 母屋は間口12間、奥行7間の規模で、下手の正面に矩折れ(かねおれ)に角屋(つのや)を突き出しています。間取りは主要8室よりなり規模が大きく一見複雑に見えますが、茶の間〜中の間〜下座敷〜上座敷と続く構成は、基本的には庄内地方でよく見られるものです。屋根は瓦葺の切妻造(きりづまづくり)で、軒は出桁(だしげた)によるせがい造となっています。室内の意匠は柱や長押(なげし)、差鴨居(さしがもい)などに春慶塗(しゅんけいぬり)を施した豪奢(ごうしゃ)なものです。 離れは母屋より少し遅れて明治29年(1896)に竣工しました。規模は間口4・5間、奥行3間で、屋根は瓦葺の寄棟造となっています。 当時の青塚は茅葺(かやぶき)や石置杉皮葺(いしおきすぎかわぶき)の屋根が連なる漁村でしたので、集落内に出現した瓦葺の母屋の大屋根は、まさに「故郷に錦を飾る」ことが、建築によって表現されたのです。 更に、留吉は青山家(本邸)の将来を考え、約250ヘクタールの土地を求め、地主青山家の基礎を築き上げました。
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北海道小樽に残るもうひとつの青山邸 小樽 貴賓館(旧青山別邸)